Journal
#2
オリーブのパン
2023.07.14
朝10時。オリーブホットハウス1階にあるショップ奥の厨房に行くと、厨房着やエプロン姿のひとがきびきびと働いていた。ピピーッピピーッと鳴り響くアラーム音。アラームが鳴る度手を止め様子を見に行く。街のパン屋の風景のようだけれど、少し違う。その理由は徐々にわかっていくのだけれど、このときはまだ厨房に置いてあるさまざまな機械にテプラで名前が貼ってあることに気がついたぐらいだった。冷蔵庫にまで「冷蔵庫1号」と貼ってある。
施設長の正岡竜太郎さんが、忙しそうに手を動かしながら話し始めた。
「いまオリーブでつくっているパン生地は主に2種類あって、ひとつは卵入りの菓子パン生地、もうひとつは全粒粉入りのフランスパン生地。ふたつの生地からピザパンやあんパン、チーズパンをつくっていきます」
全部で何種類あるのか尋ねてみると、おそらく100種類くらいあるのではないかとのことだった。その中からオリーブ農園で収穫された野菜によって、あるいは決まった曜日に決まったものを買いに来るお客さんに合わせて、毎日10種類ほどを選んでつくる。
パン生地は柔らかすぎても固すぎてもダメで、程良い生地感に仕上げるには、生地の温度管理が何より大切だと正岡さんは話した。
室温と湿度から混ぜる水温を決め、生地の温度をちょうど良いところにもっていく。「温度管理表」と書かれた表には過去の測定値がぎっしり記されていた。それを見ながら今日の水温を導き出す。
正岡さんの話を聞いている最中も、メンバーのちーこさんは何度も店を出たり入ったりしていた。オリーブ農園で採れた紅はるかを軒先で焼いて販売しており、それがまんべんなく焼けるよう5分おきに転がしていたのだ。
厨房ではメンバーのひーこさんが、正岡さんの指示を聞き動き続けている。ひーこさんは生地づくりをマスターしているひとりだ。動きはスムーズで迷いがない。けれどもいつもと違うことが起きたりレシピに載っていない材料をいれるときなどは、一つひとつ正岡さんに確認して作業を行っていた。
わたしは唐突に正岡さんに質問をしてみた。
「いま多くの福祉施設でパンをつくるようになりましたけど、ほんとうに向いていると思いますか?」
ひーこさんたちはアラームの呼び出し音に追われ、ずっと動きっぱなしだった。正岡さんにいたっては一度も休憩することなく動き続けていた。そのときの本人の状態にあわせて作業内容や時間は調整されると聞いた。それでも精神に障害があるひとにとっては少しハードではないかと心配になった。
正岡さんは一瞬迷った顔をして、「向いていないかもしれません」と言った。
これまで正岡さんは街のパン屋で修行をし、前職の福祉施設でもパン製造の立ち上げに関わっていた。そんな正岡さんが迷いながら、向いていないかもしれないと言ったのだった。
「パンづくりは工程が多くて長いんです。だから、自分がいま何をしているかがわかりづらいと思います。それに、朝早くに焼きたてのパンを並べようと思うと、3時とか4時から作業を始めないといけない。でもそんなの福祉施設では難しいですよね。そうやって、つくる種類も焼きあがる時間も妥協しなければならない」
いわゆる街のパン屋並みに営業をしようと思うと、難しいことがさまざまに出てくる。正岡さんは、障害のあるひとが働ける独自のパン屋をつくろうと試行錯誤していた。そのための工夫が先のテプラだったり、一つひとつの確認作業だったり、他にも見えない工夫がたくさんあるのだろうと思った。
2月は商売が難しい季節。平日ともなると売れ行きが鈍る。それでも閉店間際、二人の女性客が駆け込んできた。急いで出ていくひーこさん。焼きいもを手に取り見せながら、目方に応じて値段が異なることを説明している。何やらにぎやかになってきた。女性客は財布を出しながら「10円!10円!」と言っている。何を言っているかはわからないが、ひーこさんがだんだん困った顔になっていくのが見えた。正岡さんが様子を見に行った。すると女性客は焼きいもを抱え嬉しそうに出て行った。
あとで聞くと、女性客は焼きいもを全部買うから袋代の10円をまけてほしいと言ったらしかった。ひーこさんは説明して10円を払ってもらい、正岡さんが出ていった頃にはやりとりが終わっていた。問題はなかった。けれど、冗談のつもりで発せられた10円まけてが真剣に受け止められ、ひーこさんを困らせていた。
この出来事がなんとなく気になり続けた。もしかしたらひーこさんは忘れているかもしれない。でも小さな棘になって刺さっているかもしれない。自分でも気づかないまま、小さな棘が痛んでくることもある。だから、こうしたことを気にかけ見守り続けるのが、スタッフの役目のひとつかもしれないと思った。
パンは結局、内需と呼ばれるオリーブの利用者や職員らの購入のおかげで今日も半分以上が売れた。朝から夕方まで働き詰めだったひーこさんは、清々しく高揚した様子で終礼に向かう準備をしていた。うまく休めないんですと言っていたことを思い出しながら、別れのあいさつをした。
ひーこさんにとって今日はどんな一日だっただろう。この取材のせいで、いつも以上に疲れたのではと思う。終始こちらを意識しながら作業をし、時折わかりやすい説明をはさんでくれた。パンの成形も、温度管理も問題なくでき、わたしへの気遣いも申し訳ないほどにできてしまうひとだった。
正岡さんの、パンづくりは向いていないかもしれないと言ったことを考えていた。向いている仕事って何なのだろう。いやそもそも、仕事って一体何なのだろうか……。
作業終了後、パンづくりは向いていないと言われた話をもう少し詳しく聞きたいと思い、正岡さんに話しかけてみた。すると今度は、そうでもないかもしれないと話し始めた。
「パンって喜ばれるじゃないですか。週に一度、区の保健センターに売りに行くと飛ぶように売れるんです。つくったものが売れるって単純に嬉しいですよ。それに難しいパンづくりの工程を習得していってるメンバーがいるのも事実で、時間はかかっても、上達する手応えを感じられることは自信につながっていくと思います」
今日は来ていなかったが、パンづくりのほとんどの工程をマスターしているメンバーがいると聞いた。そうかといえば、午後から来ていた竹田さんのように、週に一度だけパンづくりの作業に入り、他の曜日は別の作業に従事するひともいる。朝いたちーこさんも、午後にはいなかった。そんなふうにパンづくりを究めるメンバーもいれば、そのときどきで興味のある作業に従事するメンバーもいる。いずれにしてもオリーブに通うメンバーは、それぞれのやり方で作業に向き合い、ときに上達の手応えや楽しみを感じながら時間を過ごしていた。
一般社会に出て働くか福祉施設で働くか。二者択一で割り切って考えるのは難しい。社会に出て働くことにゴールが置かれがちだが、その矢印は一方向ではなく、行ったり来たりを繰り返すこともある。だから、その間がもっと広がればいいと思う。
法律には、「一般企業に雇用されることが困難となった者」がここに来て、「就労に必要な知識及び能力の向上のために必要な訓練その他の必要な支援」を受けるとなっている。すっきりと記されているが、そんな簡単に割り切れる話ではない。
正岡さんたち職員もここに通うメンバーも、オリーブという場をそれぞれに意味付けし、関係し合い、試行錯誤していた。
訪問日=2023年2月22日(木谷恵)
※登場する方のお名前は、スタッフがすべてご本人と相談し、それぞれご本人が希望する呼び名で表記することにしました。